2009年04月18日
京懐石室町和久傳
今回は京懐石室町和久傳の紹介です。
室町和久傳で食事をされた方が、わざわざ有田まで来られるお客様が
年に何回かあります。
なぜかと????
ここで食事をされた方がうつわを気に入り捜し回れて、たどり着かれたのですよ。
この和久傳さんに有田の商社の方が自社の湯飲みを納められています。
でもうつわってすごいですよね。
そこで使われているうつわが気に入り、裏名でいろんなところから
検索して、やっと探し当てましたと・・・
こんなことを言われると、どがんでん感激するばい
この湯呑は面取りになり、手に持った感じがしっとりとくるし、すべりにくいとですよ。
文様は龍の文様で、内側には地紋が描かれています。
語源は
祥獣として崇められる龍はその姿があこがれでもある。「昇龍」「登龍」の用語を生み、「鯉跳龍門」とは立身出世を象徴とし、「登龍門」のこと。 「龍門」は黄河の中流にある峡谷である。非常な急流で、流れをさかのぼる大魚も上りきれない。ひとたび上りきれば、たちまち龍に変化するといわれてきた。中国では科挙に受かって進士になることが、出世の第一歩だったので、科挙及第は「昇龍」の成果とみなされた。
話は変わりますが、
有田にもこんな伝説があります。
室町和久傳で食事をされた方が、わざわざ有田まで来られるお客様が
年に何回かあります。
なぜかと????
ここで食事をされた方がうつわを気に入り捜し回れて、たどり着かれたのですよ。
この和久傳さんに有田の商社の方が自社の湯飲みを納められています。
でもうつわってすごいですよね。
そこで使われているうつわが気に入り、裏名でいろんなところから
検索して、やっと探し当てましたと・・・
こんなことを言われると、どがんでん感激するばい
この湯呑は面取りになり、手に持った感じがしっとりとくるし、すべりにくいとですよ。
文様は龍の文様で、内側には地紋が描かれています。
語源は
祥獣として崇められる龍はその姿があこがれでもある。「昇龍」「登龍」の用語を生み、「鯉跳龍門」とは立身出世を象徴とし、「登龍門」のこと。 「龍門」は黄河の中流にある峡谷である。非常な急流で、流れをさかのぼる大魚も上りきれない。ひとたび上りきれば、たちまち龍に変化するといわれてきた。中国では科挙に受かって進士になることが、出世の第一歩だったので、科挙及第は「昇龍」の成果とみなされた。
話は変わりますが、
有田にもこんな伝説があります。
私の出身地である佐賀県有田町は「有田焼」で有名なところですが、鎮西八郎為朝の大蛇退治の伝説が語り継がれています。
久寿元年(1154年)ということですから、今から850年ほど昔のことです。有田の北の方には黒髪山(くろかみやま)という標高518メートルの山があり、その頂上は釣鐘状の大きな岩になっています。この岩は天童岩(てんどういわ)と呼ばれ、その麓の白川の池に大蛇が棲みついていました。この大蛇は七又の角を持ち、天童岩の周りを七巻き半する程のとてつもない大蛇で、麓の村へ降りて来ては、田畑を荒らしたり、村人を襲ったりして、暴れまわっていました。困り果てた村人たちは、この地方を治める、後藤左衛門佐高宗(ごとうさえもんのすけたかむね)という殿様に窮状を訴え、大蛇退治をお願いしました。殿様は兵を率いて黒髪山に向かいましたが、なかなか大蛇は姿を現わさず、兵を引き上げると姿を表わし、村を荒らしまわるということが何度も繰り返されたので、殿様は都にのぼり、時の帝に拝謁してこのことを訴えました。帝からは「神にすがり、為朝と力をあわせて、大蛇を退治するように」というおことばがありました。
都から戻った殿様は、為朝とともに、兵を集めて退治に向かったのですが、やはり大蛇は姿を現わしません。殿様と為朝は、一旦兵を引いて評定をひらき、大蛇退治の策を練りました。八岐大蛇(やまたのおろち)退治の故事にならい、美しい姫をおとりにして大蛇をおびき出し、退治するという策を立てたのです。
早速、「申し出た者には褒美は思いのまま」と、おとりとなる女性を募るお触れを出したのですが、大蛇をおびき出すためのおとりであるとあっては、命も無いこととて、応じる女性は現れません。
このお触れの事を聞いた、高瀬という山里に住む貧しい武士の家の娘、万寿(まんじゅ)が、貧しい家を救うためにおとりになる事を申し出ました。
万寿の父は松尾禅正之助吉道(まつおだんじょうのすけよしみち)といい、殿様の家来で大きな手柄もたてた事もある誠実な人でしたが、ある時あらぬ讒言によって殿様からお咎めを受けて遠ざけられ、失意のうちに三年前に亡くなりました。家はだんだん貧しくなり、そして母も病気になり、万寿と弟の小太郎の姉弟が一家の生活を支えていたのでした。
このことを聞いた小太郎は懸命に万寿を引き止めましたが、「この命と引き換えにいただくご褒美で、残していく母に孝行をし、松尾の家を再興するように。」と諭し、殿様のもとへ名乗り出たのでした。
松尾弾正の娘が名乗り出てきたことを聞いた殿様は喜び、「娘の身で母や弟、家のため、また、困っている里人たちのために、命を捨てようとする勇気は立派である。」と万寿の願いは聞き入れられました。
そこで、万寿をおとりにして大蛇をおびき出すため、白川の池のほとりに桟敷をつくり、美しく着飾らせた万寿をすわらせて、大蛇が現れるのを六千人の兵とともに待ち受けました。すると、雲間から稲妻が走り、雷鳴とともに白川の池から大蛇が現われました。このとき少しも慌てずに殿様が矢を放ち、これが見事に大蛇の眉間に立ちました。驚き怒った大蛇がおとりの万寿を呑み込もうとした瞬間、為朝は八人張りの強弓に大雁股の矢を番え、大蛇の背に向けて矢を射ました。眉間と背に矢を受けた大蛇は、たまらず逃げ出しました。これを待ち受けていた六千人の兵が次々に矢を射掛け、大蛇はついに谷底へ落ちていきました。そこを通りかかった梅野の座頭が懐刀で大蛇の喉首を斬ってとどめをさして、ついに大蛇は息絶えました。
大蛇退治を終えた殿様は、万寿にたくさんの褒美を与え、弟小太郎には名を松尾禅正之助吉春(まつおだんじょうのすけよしはる)と改めて家を継ぐことを許し、高瀬の村を領地として与えました。そして、有田の里では村を挙げてのお祝いの酒宴をひらきました。このときにお酒を供しましたが、酒樽を据え付けた所が「大樽(おおだる)」「中樽(なかだる)」等の地名として残っています。「戸矢(とや)」という地名も、兵が射た矢が大蛇の鱗に当たってはね返り、麓の民家の戸板に刺さったところからついたそうです。
そののち、高瀬の里の人たちは万寿をいつまでも偲び、観音堂を建てて、毎年十二月十八日に、また、松尾神社を建立して父吉道と弟小太郎を祀り、毎年十二月十三日に、お祭りが行われているそうです。有田町の隣、山内町にある黒髪神社では、大蛇退治を祝って毎年十月二十九日に流鏑馬が奉納されています。
有田町の伝統文化の交流プラザ「有田館」ではこの物語を、有田焼で作られたからくり人形が演じる劇が常設で行われています。
Posted by 窯主 at 09:00│Comments(0)
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